囚人から刑務所長に 川村矯一郎

川村矯一郎(かわむら・きょういちろう/1852~1891)

再チャレンジを応援し続けた静岡監獄(刑務所)の長

因縁の静岡監獄

静岡県静岡市の東千代田にある「静岡刑務所」。昭和42年までは、現在の市民文化会館の辺りにありました。お堀沿いに赤レンガ塀が続いていたのを、年配の方ならご記憶のことでしょう。

大正11年に「刑務所」と改称される以前は「監獄」。静岡監獄は明治前半期には井宮にあり、明治の半ば頃に駿府城址の一角に移りました。その監獄の運営責任者として数々の改革を成し遂げただけでなく、出所後の社会復帰を支援する事業まで手掛け、全国に範を示したのが川村矯一郎です。 

彼の青年時代は、江戸から明治へと大きく変わっていく激動の時代。彼は過激な政治活動により、3回も監獄に収監されます。最初は大分で、次が東京。そして3度目として明治11年、井宮にあった監獄に送られてきたのでした。

ここでは岡本健三郎という人物と同部屋になります。この人は板垣退助らと共に自由民権運動に奔走し、日本に初めての議会を創ろうとした「民選議員設立建白書」の作成メンバーでした。罪状も同じ政治犯、刑期も同じく二年間だった二人は、獄中で日本の未来を語り合うのでした。

岡本はかつて政府の役人として、天竜川改修事業に取り組む実業家の金原明善を支援していたことがありました。そんな縁があったので、岡本が刑期を終えたときも、出獄を祝うため明善が訪ねてきます。この時、同時に出獄していた矯一郎も明善と出会います。

寄宿先の常光寺(常磐町)に入った矯一郎は、明善に監獄のひどいありさまを語り明かします。獄舎の不衛生さは豚小屋同様、狭い部屋での雑居、食事は犬畜生と同様、教誨方法が画一的で個別対応できていない、等々。このような処遇では、罪を反省するどころか、いっそう心が荒んで再犯を奨励するようなものであると力説したのでした。

典獄(所長)への転身

出獄後の矯一郎は、しばらく明善のもとで天竜川治水事業に従事。明治19年には、明善の進言を容れた関口隆吉県令(知事)の采配により、静岡監獄の副典獄に抜擢されます。現在で言えば刑務所長のような立場です。

矯一郎は、水を得た魚のように、かねてから念願していた監獄の改良に乗り出します。いったん囚人となった人間でも、それで人生が終わりなのではない、再チャレンジは可能だということの、生きた見本となった矯一郎は、囚人たちにも勇気を与える存在でした。

看守の佩刀を禁じるなど、それまで看守が囚人に対して非常に威圧的だった点も改めました。看守もホトホト手を焼いていた窃盗・強盗の累犯者でさえ、矯一郎に接するようになってからは、見違えるように改心していきました。

更生事業への挑戦

ある時、矯一郎の感化を受けた一人の男が、希望に満ちて出所しました。ところが、故郷の我が家に戻ってみると、彼の妻はすでに他の男と再婚、二人の子どもまで儲けています。戻るべき家庭を失った男は、身を寄せる場所を求めて親類を訪ね歩きますが、どこへ行っても「お前のような、ならず者は、わたしの親戚ではない。」とすげなく断られます。人の非情にうちひしがれ、身の置き場の無い男は、ついには矯一郎宛ての遺書を残して、湖水に身を投じてしまいました。

いくら監獄内で人生のやり直しを誓っても、彼らが実社会で更生していく仕組みや環境が整わなければ、すべてが無意味になってしまう。そんな現実を突き付けられた矯一郎と明善は、出獄人たちの悩みや希望を受け入れた上で社会復帰への橋渡しをする民間施設が必要であると考え、事業への賛同者を求めて走り出します。

当時の社会は、前科者に対してはほとんど理解が無く、大反対の嵐です。それでも、粘り強く周囲を説得しながら、明治21年「静岡県出獄人保護会社」を設立。日本初の更生保護施設です。翌年までには、県下で1,700名余の保護委員(現在の保護司)を委嘱。北安東(現静岡高校付近)に保護場が設けられ、紙漉きなどの授産事業も行われました。

井宮からの新築移転

矯一郎は監獄の移転にも取り組みます。井宮監獄は賎機山の真下。立地条件が悪く手狭でもあり、頻繁な火事や自然災害で囚人が死亡したり、脱走したり、というトラブルが絶えませんでした。そこで彼は、県や議会に働きかけ、粘り強い交渉の結果、駿府城址の一角への新築移転を導きました。

ところが明治24年1月、急性肺炎にかかり、立ち上がることもできなくなります。自分の死期を悟った矯一郎は、見舞いに来た明善と県知事に、自分の後任には千頭正澄をあててほしいと懇願し、東草深の自宅にて息を引き取りました。彼の死後、ほどなく新刑務所の工事が始まり、明治26年に完成しています。

引き継がれる遺志

矯一郎亡きあとも、彼の志は引き継がれていきます。後任を託された千頭は、新築成った静岡監獄を振り出しに、名古屋、大阪、東京、京都など、我が国の主要な監獄の責任者を歴任しつつ、各地での出獄人保護会の発展にも尽力しました。矯一郎の妻ウタも女囚の世話を担いました。

下駄職人の親方「下駄久」こと、本間久次郎も有力な賛同者でした。彼は監獄署内に工場をつくり、技術指導をしました。おかげで、出獄後に下駄職人として社会復帰できた人々も多くいました。

「静岡県出獄人保護会社」は、名称を「静岡県勧善会」と変え、今も静岡市を拠点に地道な活動を続けています。矯一郎は39歳という若さでこの世を去りますが、人間の可能性を信じて、「前科者」とさげすまれた人たちの再チャレンジを応援しつづけた真心は、今もなお語り継がれています。

参考:『静岡県勧善会百年史』、『更生保護史の人びと』、『静岡県歴史人物事典』