西郷隆盛を心服させた熱誠
山岡西郷会見之碑
幕末、江戸無血開城を決したとされる西郷隆盛と勝海舟の会談は、歴史小説やドラマで有名です。しかし、その会談に先立ち、命がけの交渉によって西郷の心を動かしたのは山岡鉄舟でした。
静岡市では、その舞台となった駿府伝馬町の松崎屋源兵衛宅跡を史跡に指定。これを受けて、地元有志による顕彰碑が建てられました。現在は新静岡セノバの横に移設されています。
後年、西郷隆盛の言葉を書きとめた『南洲翁遺訓』の中に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という有名な一節があります。これは、会見に臨んだ時の鉄舟のことを指しているといいます。
静岡への移住
江戸城が明け渡された後も、元将軍の徳川慶喜を担ぎ出して勢力挽回をはかろうとする不穏な動きは止みません。慶喜護衛のために組織された精鋭隊を率いる鉄舟は、不測の事態を避けるため、勝海舟・高橋泥舟らと協力して、慶喜の身柄を水戸から駿府の宝台院へと移し、鎮静化に努めました。
德川宗家を駿遠の地方大名に格下げすることで新たに生まれた静岡藩においても、大久保一翁らとともに、幼君家達を支えて藩政の舵取りをしました。旧幕臣とその家族・縁者ら、数万人もの人々がうろたえる大変な時期でした。
この頃の鉄舟は安部金山の再開発を検討するなど、しばしば安部街道を往復。そのためか、井宮十分一役所跡に仮住まいしました。そこは、安倍川・藁科川上流の山林から切り出された材木を管理して関税を徴集する役場だった所です。
静岡に遺した足跡
明治4年、静岡を離れて政府に出仕。茨城県権参事、伊万里県令を務めた後、明治天皇の側近として宮内少輔などを歴任しました。その間も旧幕臣たちと静岡のまちには心を砕き続けています。
神仏分離・廃仏毀釈によって荒廃していた久能寺の復興も、彼の発願から動き出します。その復興事業は鉄舟の死後に持ち越されますが、清水の魚商芝野栄七らが遺志を継ぎ「鉄舟寺」として蘇りました。また、大岩の臨済寺でも仁王門の建設を支援しています。
書家としての彼が残した作品は100万点以上にものぼると言われます。鉄舟寺をはじめ、各地の寺院や旧家などに鉄舟の書が蔵されています。県庁前のお堀端に据えられている「教導石」の力強い文字も有名です。
揮毫の謝礼として受け取ったお金は、教育・寺院復興・災害救助などに充てられます。彼自身は若い時代に「ボロ鉄」とあだ名された頃と変わらず、生涯清貧な暮らしでした。「晴れてよし曇りてもよし不二の山 もとの姿はかはらざりけり」・・・鉄舟寺の碑に刻まれた歌は、彼の澄み切った心境を物語っているかのようです。
参考文献:小倉鉄樹『山岡鉄舟先生正伝・おれの師匠』、佐倉孫三『山岡鉄舟伝』、中山栄治『山岡鉄舟の一生』、大森曹玄『山岡鉄舟』ほか